太気拳気功会 島田道男先生のこと
August 25th, 2025
太気拳武禅会は師である島田道男先生に開いて頂いた。
自分の先生についてネット上であまり語りたくはない。
先生の凄さを語ることで、そんな達人に習った俺ってすごいでしょ、という自分自身や自流派に対しての権威づけという心理が見え隠れするからだ。
だけど少しだけのろけたい。
和菓子、いや、我が師、島田先生はすごい人だ。
常人ではありえないエピソードが山ほどあるが、残念ながらここでは語れない。
じゃあブログに書くなと思ったが、ここまで書いたからもったいないので続けよう。
しょうがないので三十年ほどの間で培われた、私の島田先生に対するイメージを述べるに留めたい。
島田先生はF1マシンである。
サーキットという限定された状況で、とにかく速く走ることだけを追求した物体。
極めてピーキーな性能を持った、戦闘特化型のマシンだ。
とにかく速く、いきなり止まり、恐ろしく曲がる。
そして機能性を追求した結果、カッコいい。
私の好む用の美の極地だ。
一般公道ではうるさいし、暑いし、燃費悪いし、不便なことこの上ない。
きっとコンビニに入るにも段差を乗り越えられなくて苦労する。
島田先生は武術に特化されているのだ。
街中では歩いているだけでトラブルもあるだろう。知らんけど。
いや、ちょっと知ってるけど。
だが武術の場において、しばしばハッとするような動きがあるのだ。
島田先生はライオンである。
動きが猫科動物のようである。柔らかいのだ。
身体が大きいので力で圧倒するような戦い方をするのかと思いきや、ぬるりとしたところがある。
棍棒で叩くのではなく、水袋をぶつけられるような、重さがある。
ハラから出る力がある。気の力がある。
いわゆる格闘技的な、型がある動きではない。
試合ではなく路上での、生きるための武術を体現しているのだ。
島田先生は任侠の親分である。
気功会の稽古は、緊張感が漂っている。
ピリピリしている。
声を出すのも憚られる雰囲気だ。
だが、稽古が終われば「まあ一杯飲んでいけよ」となる。
一見コワモテだが、弟子にはすこぶる暖かい。
気功会の方々も、島田先生のことは怖いけど好き、って感情があると思う。
気功会は島田組だ。
親分、古文、あおによし、いや、親分、子分の関係だ。
なぜこんなにMacの変換はアホなのだろう。
親分と打った後になぜ古文とくる?
そして武禅会はその関連組織の松井組、みたいな感覚が少しある。
私自身にそんな気組みがないので、武禅会はゆるい空気が漂っているが私はそれが気に入っている。
(「任侠の親分」は喩えである。そういう組織とは一切の関係がないので、念のため。)
なにより、私にとって島田先生は師匠であり恩人である。
今、私が武禅会の最高のメンバーと出会い、愛することをして暮らし、真に幸福であると言い得る生き方ができているのは、島田先生のおかげだ。
ありがとうございます。
つい師匠自慢をしてしまった。
冒頭に述べた通り私は島田先生の弟子、ということをあまり語りたくない。
もっというと太氣至誠拳法(太気拳)という流派も強調したくない。
それは島田先生のみならず澤井健一先生という、私が会ったこともない方の権威を傘に着ることだから。
だけれども、古くから伝承されたものには一人の研究で得られたものとは雲泥の差がある。深みがある。
武禅会ではそれを大切にし、お伝えしている。
結局は自分自身がどうか、だ。
師匠も流派も関係ない。
天上天下唯我独尊である。
形意拳 郭雲深先生の弟子である意拳 王向斎先生の弟子の澤井健一先生、その弟子である島田道男先生の弟子、
太氣至誠拳法武禅会
松井欧時朗
どや、すごいやろ

気功会にて、稽古後のひととき