荘子 斉物論篇13
September 1st, 2025
上古の人には、その知恵が、それぞれに到達するところがあった。
その到達したところとはどのようなものであったか。
最も高いものは「はじめからいっさいの物は存在しない」とするのであって、これは究極まで至りつき、すべてを尽くしたもので、もはやつけ加えるべき何ものもない。
これに次ぐものとしては「物は存在するけれども、その物には限界:他と区別される境界がない」というのがある。
さらにこれに次ぐものとしては「物には限界があり、物と物とを区別する境界はあるけれども、是と否の区別、価値の区別はまったくない」というのがある。
もし是と否との対立、価値の区別が現れるところまで来れば、道の完全さがそこなわれることになる。道の完全さがそこなわれるところ、そこには物に対する愛欲が生まれる。
荘子 斉物論篇13(森三樹三郎訳)
認識する主体である「自分」がなければ認識される客体である「物」はない。
いっさいの「物」をなくす必要はなく、ただ「自分」がなければいい。
この事実をはっきりさせる具体的な修行法が「そのまんまに坐る、立つ」という態度だ。
ただ気楽に、そのままにしておけばいい。

SISU:粘り強く不屈の精神