「好き」で「それをやっている自分が好き」なことをやる
September 5th, 2025
人生は選択の連続だ。
どのような選択をするか、そしてその判断基準はなにか。
それがその人の人格やライフスタイルを決めると言っても過言ではない。
以前の私の主な判断基準は「損か得か」「それが将来、自分のためになるかどうか」であった。
進学や就職など、人生を方向づけるような大きな選択肢であればあるほど、その傾向は強く現れていた。
ところがここ10年ほどは、何かを選ぶとき「好きか嫌いか」「やりたいかやりたくないか」を重視するようになった。
判断基準が変わった理由は自分でも分からないが(自分にとっては)その方が人生うまくいく、と直感したのだと思う。
そしてその結果、主観的な幸福感が大きく向上している。
だがこの基準だけでは「コーラを飲む」、「ゲームで夜更かしをする」など、やりたいけれどよい結果にならないであろう選択肢が排除できない。
とはいえこれまでもコーラを一日三本ガブ飲みすることはなかったし、毎晩ゲームで徹夜することもなかった。
いや、ゲームで徹夜はしょっちゅうあった。
ではなぜコーラをガブ飲みしないのか。
それは自分の中にもうひとつ、隠れパラメーター的な判断基準があるからだが、それを最近言語化することができた。
「それをやっている自分が好きかどうか」だ。
この基準があれば、コーラが好き、そして砂糖の摂取などに過剰に神経質にならずコーラを楽しめる自分は好き、だけど砂糖中毒になって毎日飲んでしまう自分は好きでない、と自分なりの基準で歯止めをかけることができる。
私はパチンコは好きでないから一切やらないが、パチンコが好きで、パチンコをやってるギャンブラーな俺も好き、ということであればそれを極めるほどとことんやればいい。競馬での豪快な賭けっぷりがウリになっているお笑いの粗品さんのような例もあるではないか。徹夜のゲームも、それがゲーム開発につながるかもしれないではないか。
「それをやっている自分が好きかどうか」は、「それをやっているのを人が見たらどう思うか」という基準とは本質的に異なる。
あくまでも自分軸である。
自分を他人として見てはいるが、自分を見ているのは自分である。
「他人がみたらどう思うか」という基準は私には窮屈だ。
しかも他人の気持ちなんて絶対にわからないので、自分が勝手に想像した他人の気持ち、というあやふやなものが基準となってしまう。
そして「それをやっている自分が好きかどうか」という視座は「天が見ている」という基準につながる。
己の行いは全て天が見ている、だからそれに恥じぬよう生きろ、ということだがこの天はすなわち己であるからだ。
「己自身に恥じぬ行いをせよ」ということだ。ここで普段の修行とリンクする。
おお、至ってまともかつ退屈な主張に帰結してしまった。
みんなと稽古することが好きで、それをやっている自分が好きだ。
読書をすることが好きで、それをやっている自分が好きだ。
歩くことが好きで、それをやっている自分が好きだ。
人生において「好き」で「それをやっている自分が好き」なことをする割合を高めていくこと。
それが幸福に直結すると感じている。

自宅の窓から。9頭もの群れははじめて。