意念を用いるか、用いざるか
November 28th, 2025
立禅では意念(イメージ)を使うことがある。
四方の空間とバネで繋がっており、全身が空間全体と協調して動く。
全身が周囲の空間、自然とつながっているかのようだ。
敵と相対したときもその相手だけにとらわれることなく、天地と呼応する。
自己と周囲の環境との一体化ともいえるだろう。
意念を使わず、ただ立つこともある。
ただそのままに立つ。
野生動物が休息しているときのようだ。
くつろいではいるが、物音がすれば瞬時に反応する。
ただ環境の変化に応じるのみだ。
意念を用いる前者は、自己を立てた稽古だ。
自己があって空間がある。
自己の動きに伴って世界が動く、世界を動かす。
そのように能動的な、自己を中心とした世界観だ。
意念を用いない後者は、自己がない稽古だ。
自己は空間の一部にすぎない。
「音を聞いたから反応する自己」があるのではなく、音があれば世界はただそのように変化するだけだ。
物を落とせば落ちるのと同じ、そこに自己という意図はない。
どちらの立禅でも、行き着く先は同じだ。
なぜなら、どちらも言葉の遊びにすぎないから。
考えようと考えまいと、そうなっている。

宗鏡寺にて、荒々しくも繊細


