不動智神妙録(間不容髪)
December 8th, 2025
間、髪を容(い)れずということがあります。
これを兵法にたとえて述べてみましょう。
(中略)
人が打ちこんできた太刀に心が止まれば、そこに隙ができます。
その隙にこちらからの働きが、お留守になるのです。
向こうが打ってきた太刀と、それに応える我が方の働きとの間に、髪の毛一本入らぬようなら、人の打つ太刀は自分の太刀となるのが当然です。
禅の問答でも、このように間髪を容れない心の状態を大切にします。
仏法では、心が何かにひっかかって、物に心の残ることを嫌います。
それで、心の止まることを煩悩というのです。
激しい流れの川に玉を流すように、どっと流れて少しも止まることのない、心の状態を尊ぶのです。
(「不動智神妙録」沢庵・池田諭訳)
組手でも、その他のスポーツでもこのあたりのことは感じられる。
何も考えずただ反応するだけの方がうまくいく。
前拳を避けることだけに集中していれば後拳や蹴りをもらってしまう。
事故の時にとっさに身体を護る反応と同じようなものだ。
その瞬間瞬間の身体の反応に任せるしかない。
このように言うと何か特別な、危険な時にしか発動しない火事場の馬鹿力のようなものと思われるかもしれない。
だが組手や非常時でなくとも、実はこの自然のはたらきが身体を支配している。
試しに今、指で鼻を触ってほしい。
このとき、その腕(右手か左手か)で、その指で、鼻のその場所を、その圧力で触ることを「私」が細かく指示しただろうか。
もう一つの例だ。
今この文字を見ている。
画面から目をそらすと、目に文字は残っていない。
今聞こえている音は1秒後には聞こえない。
目や耳はこのくらいサラサラと何かにとらわれることがない。
上の「試しに今、指で鼻を触ってほしい。」という文章を読み、鼻を触らなかった人も多いと思う。
その時「面倒くさい」、「しなくてもわかる」等の「私の判断」があった。
その「私の判断」が非常時には強制的に省略されるのだ。
という話をしている途中に、脈絡なくこの画面上に★が出てきたら、間髪をいれず★になっている(が見える)。
サラサラ、コロコロといきたいわ。

沢庵ゆかりの宗鏡寺にて


