荘子 大宗師篇2
November 14th, 2025
上古の真人は、不幸な運命に見舞われても逆らうことがなく、たとえ成功してもこれを誇ることがなく、万事を自然のままにゆだねて、はからいをすることがなかった。
(中略)
上古の真人は、眠るときは、眠ることに安んずるために、夢を見ることがない。
その目ざめているときは、日常の営みに安んずるために、憂いをもつことがない。
食事のときも、特別に何かがうまいといって心をひかれることもなく、その呼吸は深く安らかである。
真人はかかとの先から深く呼吸するが、凡人はのどの先で呼吸するのである。
(荘子 大宗師篇2 森三樹三郎訳)
安んずる、というのは、それでよし、とやすらかに満足することだ。
それでよし、つまり、そのまま、である。
もし真人(真の人、道を悟りその通りにある人)が夢を見たとしても、
「うわー!昨日ひっさしぶりに夢見たわ!俺、もう真人とちゃうやん!!これまでの修行は何やったんや!」とか思わないだろう。
夢を見たら夢を見たことに安んずるだけだ。
私が教わった学んだ坐禅は、ただ「そのまま」に坐るということだけだ。
立禅や坐禅をしているとき、どこかが痒くて、かきたくなったらかけばいい。
かくのをもう少し我慢しよう、と思えば我慢すればいい。
「こうあるべき」を自分で作り、自分で迷っているだけだ。

沢庵さんゆかりの宗鏡寺にて、秋やわ


