「私」にとっての「事実」について
September 12th, 2025
科学的なこと、客観的なことが事実・真実というのが一般的な常識だ。
「火星に無人探査機が到着した。」
これは客観的な事実だろう。
しかしそれが「私」「自分という意識」にとっても事実・真実だろうか。
「私」は五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)から入力された刺激を脳などで処理した結果と、思いや思考、感情などが総合された主観の世界で生きている。
生まれてから死ぬまで、この様子のみである。
脳が処理した結果は「私」に見えている、聞こえている、、、と感じられ、また思い、考え、感情(キレイだな、お腹すいたな、あいつ好きだな、、、)として「私」に現れている。
今もこの液晶画面そのものをありのままに見ているのではなく、「私」はこの液晶画面からの光の反射を処理した脳内のデータを感じ、液晶画面を見ていると主観的に認識している。
液晶上のこの文字列は、本来は背景の白と文字としての黒の差を視覚が感じた結果でしかない。
しかしその視覚情報に言語としての意味づけをし、そこから得られた思いや感情も合わせて感じている。
他の動物や昆虫には、可視光線の帯域が人間とは異なる種がある。
それらがこの液晶画面を見たら、それらには人間が見えているのに見えない部分があり、また人間が見えていないものが見えている(のだろう)。そしてこの文字列が視覚として見えていたとしても、それに人間と同じような意味は見出せない(のだろう)。
今、窓の外では小鳥がさえずっている。風の音が聞こえる。
それが「私」にとっての事実であるが、科学的、客観的な事実としては、ここにはそれらの音だけではなく草木のこすれる音、虫の這う音、無数の音があるはずだ。
「私」はそれらの音のうちほんの少しの部分しか認識しておらず、あふれる光のうちほんの一部しか認識していない。
「私」が知覚し得るもの、それらを合わせた体験と思いの総体が「私」にとっての事実である。
物理的事実のみが事実、と言っているのではない。
経験している思いや感情も、その思いや感情が事実としてある。
今私が座っているこの部屋の外は私には見ることができない。
しかしドアを開ければ玄関があると「思っている」。
今の「私」の事実としてはこの部屋の外は存在しない。
今存在するのは、
今いる部屋の様子と「ドアの外には玄関がある、庭がある」。
この思いのみだ。
物質的事実としての玄関は「私」にとっては存在しないのだ。
そしてこの「ドアの外には玄関がある、庭がある」という思いは、今はこの文章をこ こ ま で 書 き 進 め た の で 消えてなくなった。
無常である。
「昨日という日があった」「死んだら生まれ変わる」「宇宙人はいる」「霊魂は存在する」「大阪に両親は今日も生きて住んでいる」。
こんな思いがある。
これらの思いがあること自体はその人の事実だ。
しかし思いの内容は事実ではない。
思いがあることのみが事実である。
それをその思いの内容が事実であるとするところに混乱と迷いが生じる。
今日も実際に両親は生きているはずだが、札幌にいる私にはその存在は見えないから、「生きている」と「思った」ことだけが事実だ。
本当に今も生きているかはわからない。
「火星に無人探査機が到着した。」
信頼できる複数の情報源からのニュースによってこれを知り、「事実だと知っている」。
「私」にとって事実はこの「事実だと知っている」この部分だけである。
信念、思い、文章、言語としての「火星に無人探査機が到着した。」が事実なのであって、客観的事実、出来事としての「火星に無人探査機が到着した。」ことは「私」にとっては事実ではないのだ。
なぜなら「私」は探査機を見たことも火星に行ったこともなく、なにより今は自宅にいるからだ。
いま、ここ、のみが「私」「自分という意識」にとっての事実である。
私が認識する世界は、今の五感と思いによって構成された今あるものだけだ。
私が体験した過去のものもない。
「昨日の晩御飯、美味しかったな」という思いが、「今」想起されただけである。
過去はない、未来もない、過去の記憶と未来への希望が今、あるだけだ。
「私」は死なない。
科学的、客観的な視点ではこう言うとそれ以降は怪しいヤツだ、と話も聞いてもらえない。
だが「私」「自分の意識」という観点からすると、もし自分が死んだらその死を意識する「私」はないので、自分の死を意識することはできない。
もし「俺、死んでる!」と意識するのであれば、それはまだ死んでいないのだ。
この文章を読んで「いや、霊魂が離脱して、自分の身体を空中から眺めている事例が報告されている」と今思ったら、「いや、霊魂が離脱して、自分の身体を空中から眺めている事例が報告されている」と思ったということだけが事実なのであって、その言葉の意味することを調べたり研究しても「私」についての事実は絶対に究明できない。
「私」は主観を離れて客観的な視点で物事を見ることは決してできない。
「私」が五感と思いを通してしか物事を見ることができない以上、客観的な視点で見ているという思い、考え方を「私」が主観的にすることしかできないのだ。
客観的な視点こそが、この科学の発達した時代においては事実・真実とあると思われる。
しかし、「私」にとっての事実・真実とは、この身で体感したこと、思ったことそのものしかないのだ。
いま、ここ、だけだ。
このような視点を非科学的と思うかもしれない。
屁理屈と思うかもしれない。
しかし非現実的ではない。
極端なまでに現実的な視点だと言えるのではないだろうか。
「私」の「極めて主観的な感覚」である、納得、安心、幸福。
そのようなことを目的として世界を探求するには、客観的な視点からではなく、このような「極めて主観的な立場」から探求するのが筋なのだ。
そしてこの「極めて主観的な感覚」の根源は「私」という思いである。
ここで、これまで上述してきた内容の根本を打ち壊そう。
思ったということ自体は事実だがその思いの内容は事実ではない。
つまり「私」がある、と思っていることは事実だし、ほとんどの人は自分があると思っているだろう。
だが「私」がある、という言葉の内容は事実ではない。
今も「私」が「液晶画面を見ている」のではない。
それは事実ではなく事実の説明であって、本当はただこの様子があるだけだ。
言葉遊びに聞こえるかもしれない。
だけど、このように事実ではなく、事実の説明を事実だと認識しているところに迷いがあるのだ。
事実は全て目の前にある。何も隠されてはいない。改めて知るべきことはなにもない。
こんなことが理屈として理解され、はじめて私は修行に真剣に打ち込めるようになった。
49歳の誕生日の頃、これから1年間で1000時間坐ろう、と決め実行した。
それまでの数年間も含め、その倍以上は坐ったと思う。
そして、ただ、そんなことか、とはっきりした。
「私」ではない、「公」(おおやけ)だ。
修行に理論は邪魔である。
理論的探求は修行とは何の関係もない。
上述のことが「分かった」ら事実に近づいたのではない、離れたのだ。
言葉を連ねるとどんどん事実から遠ざかる。
だからここに戻ろう。
⚫️となったら⚫️。
これだけである。

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